「転機」 -ヘルベルト・フォン・カラヤンのお話 その9-
そして1940年の4月にはベルリン・フィルと『悲愴』(シューベルト作)で初録音することとなります。
同年には2人目の妻アニタ・ギューターマンと結婚します。
当時のユダヤ人に対するいわれなき差別意識がドイツ圏にあったことの反影でしょうか。
この際、アニタ・ギューターマンがユダヤ系であるとしてカラヤンの結婚を問題視する動きがありました。そして翌年1941年からカラヤンの指揮者人生に転機が訪れます。
1941年ドイツを代表する偉大なる指揮者ヴィルヘルム・フルトベングラーがベルリン国立歌劇に復帰したのです。それに伴い、カラヤンはオーケストラ演奏会のみの指揮を余儀なくされます。そして1942年にはその演奏会数自体年間6回と大幅な制限を受けるようになりました。
演奏会も含めた聴衆の前での指揮する機会が大幅に減らされたカラヤンは1942年から1943年にかけてレコーディングに活路を見い出します。
1941年にはRAIトリノ交響楽団との間でモーツァルトの交響曲第35、40、41番をはじめとする一連のレコーディングを果たします。
そして1943年には、ヨーロッパを代表する名オーケストラであるコンセルト・ヘボウ管弦楽団とともに、ブラームスの交響曲1番をはじめとするいくつかのレコーディングを果たしました。