第2次大戦後、連合軍の指示による1年間の演奏停止を余儀なくされ、翌1946年にウィーン・フィルとの演奏会の復活にやっとこぎつけたカラヤンでしたが、またしても邪魔が入ります。
カラヤンは戦時中に実はナチス党員でした。このことを理由として、直接にはソ連の占領軍による公開演奏停止処分を受けます。翌1947年には再び処分の保留が行われるなど、目まぐるしく戦時中のカラヤンに対する評価が変わります。
カラヤンは1933年ザルツブルグにおいてと、1934年にウィルムでの再入党、1934年にアーヘンにて本格的な入党を図っていました。
カラヤン自身は当時の入党について「私にとってナチス党員になることは、スキー・クラブの会員になる程度の感覚だった」と後に述べているようです。
いずれにしろ、1948年ウィーン交響楽団の首席指揮者、1949年にはウィーン楽友会館の音楽監督に就任します。
また、この頃からレコーディングも積極的に行い、イギリス・EMIの録音プロデューサーのウォルター・レッグの元、フィルハーモニア管弦楽団との演奏活動及びレコーディングが活発になります。