ザルツブルクに帰ったモーツァルト父子にとって、状況は更に悪くなります。
というのも、1772年に大司教がシュラッテン・バッハ伯爵からコロレド大司教へと、新たに選出、交替したのでした。
新大司教・コロレドは徹底した合理主義者で音楽にかかわる費用を最小限としましたし、音楽に対する理解も乏しく、モーツァルトの天才を評価しようとしませんでした。
もはや、モーツァルト父子にとって、成人を迎えたモーツァルトがザルツブルクに留まる理由は存在しませんでした。
かといって、父・レオポルトまで失職したのでは、一家の収入は途絶えてしまいます。
一計を案じた父・レオポルトは母・アンナを青年・モーツァルトに帯同させることとします。
母子の職を求めての旅は、ミュンヘンを皮切りに、アウグスブルク、マンハイムと続きましたが、各地の音楽家たちからの尊敬を一身に集めたものの、各選帝候(ドイツ国王と神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ資格を有する大貴族)からの言葉は「空なし」の冷たいものでした。