父・レオポルトにとって、少年モーツァルトの大天才ぶりは、この比類なき才能の開花のため、自らの将来を投げ捨てるに充分な動機となりました。
父・レオポルトも才能豊かなバイオリニストであり、宮廷作曲家でしたから、そのまま
ザルツブルクでの昇進を考えても良いはずでした。
しかし、少年・モーツァルトの才能はそんな小さな成功を打ち消すほど大きなものでした。
事実、イタリア楽旅の際中の1770年12月26日、ミラノのドゥカーレ劇場でモーツァルトの手になるオペラ「ポントの王ミトリダーテ」が初演され、モーツァルト自身がチェンバロと指揮を担当して、ミラノ劇場全体が歓喜と喝采の渦と化した程です。
そして、イタリア楽旅の目的のもう一つは、モーツァルトにふさわしい仕官を決定することでした。先に述べたマリア・テレジア女帝の2人の息子たちの治めるミラノ公国か、トスカーナ公国への仕官でした。
ザルツブルクの大司教に知れないように長期に渡って行われた秘密の交渉。
しかし、結果は「不採用」。
モーツァルト父子にとって、何とも苦い結末となりましたが、少年・モーツァルトにとって、イタリアでの体験は何にもかえがたいもので、その後の素晴らしい音楽へと結実していきました。