ハイドンに認められ、当代きっての作曲家となったモーツァルトでしたから、1786年にオペラ『フィガロの結婚』を完成、初演、1787年同オペラのプラハでの大ヒットを受け、その後、頻繁に同地を訪れるようになります。
同年5月には父・レオポルトの他界という悲しみ事もありましたが、音楽活動は順調で、同年10月には有名なオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を作曲、自ら指揮者としての初演となりました。
また、ウィーンにあっては同年『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲。
翌年1788年には世に言う「3大交響曲」(交響曲39番、40番、41番)を作曲と、まさに全盛期を迎えることとなります。
しかし、仕事の順調さとは裏腹に華美な生活のせいで借金問題が更なる悪化表面化してきたのも、この頃でした。
このことは父・レオポルトが生前最も気懸りであった点でしたが、不幸にも的中する形となってしまいました。
そしてモーツァルトの浪費癖に加えてフリーの音楽家であったことも災いして、作品に対する報酬が余りに低かったことが事態を更に悪化させていたようです。